2012年4月20日

春祭り。




ふだんは静かにたたずんでいる神社のまわりがなにやら、にぎわっていました。どうやら春祭りのようです。村田住職に聞くと、ほんの少し前までは神輿が各家々をまわっていたそうです。昨日のPTAの折、Hさんと「あえのこと」のことに始まって、ご近所の古老たちのふだんの何気ない仕事振りやしぐさの話になりました。ただ畑にいて、田んぼのいて、ただ散歩をしているのだと思っているその中に私たちが身につけている近代性とは違うふるまいがあるのだそうです。
古老達はただただ親や祖父たちから教えられたりしたようにやっているのですが、そうした文化が消え果そうになっている今、貴重な示唆がそこにあるように思いました。それをあんちょこに言語化してしまうと意味がずれてしまいそうな蓄積が古老達の全身体に積み重なっているのだと思います。
神社は与呂見地区を見守るような位地にあり、すぐ前にある三枚の田んぼも耕作させていただいておるのですが、一人で田にいますとなにやら神様に見られているような気持ちになります。そんな時ふと目にする与呂見地区の人たちの様子は見事に風景の中でどっしりと地に足をつけておられて、とても楽そうに仕事をしておられるように感じます。父祖がしたように自分たちもただ、節目に応じた仕事や行事をこなすという、いわばふつうの光景として決して人間などという意味の追求も不必要であります。
つまり外来者のような者が感じる神様とそのような人が思考する人間というものは、その二つがバランスをとってはじめて意味をなすものに過ぎないのではないでしょうか。私のようなもののあんちょこな二元論的思考の中にしか神も人間も存在できないのではないでしょうか。過疎化にて廃村になる地区が多いといわれますが、こと、与呂見地区を見ている限り、遠方に出た親族の方々もお盆や正月などの節目にはたくさん帰られていますし、遠方にあっても強いベクトルを持った思いがふるさとに向けられているように思います。
草取りなどで田んぼでヒーハー言っている時、ふと風が吹いて鎮守も杜の梢や枝がなる時があります。再び目を足元に戻すと稲が揺れています。目の前で揺れるなにものかは千年前に生きていた先達の目を呼び戻します。その時私の目などとは到底思えません。そして私の目も千年後の未来人によって取り戻されるようにと念じます。私という自意識は小さな小さな点に過ぎません。とても安楽な気持ちになれます。

田んぼでの妄想記録。→http://jusai123.blogspot.jp/search/label/%E9%87%8E%E8%89%AF%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%80%81%E7%94%B0%E3%82%93%E3%81%BC%E3%80%81

ブログ内リンク あえのこと→http://jusai123.blogspot.jp/2012/02/blog-post_18.html

ついでに→http://jusai123.blogspot.jp/2012/01/blog-post_18.html

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