2012年4月17日

慈悲と利他。

yoromiは10年前ぐらいから、それまでの慣例をやめて野菜をそれぞれの家庭で
つくっている。できすぎたら、たりていない家にあげたりしている。ジャガイモなど、年間食べられるだけの収量があるものの場合、保存のために冷暗所で網袋に入れて、各家庭の目印をつけて共同で保管することになる。
ジャガイモの小さいのが入った網袋をてっきり自分の家のだと思っていたのですが、実際に袋を触ると、紐の結び方とかがえらい美しいので、これはほんとうに自分の物なんだろうかと疑った。とりあえず、そばに居た村田住職にわじゅさんのはどれですかと尋ねるとこれこれこれとガムテープを目印にした三つの袋を教えてくれた。どうもたねいもにしようとしていた自分の袋だと思っていたものが、違うみたいなんです。と言うと、村田住職は大きいジャガイモの入った一つの袋を指して、これどうぞと言う。この時はっきりとわかりました。自分のイモだと、ほぼはっきり思おうとしていると。
自分の。村田住職に再び尋ねる。だってそんな大きなの、食べるでしょう。「だって、こんなにあっても食えないもん」うーmm。ジャガイモの大きさを羨んでもいる。
すみこさんに聞いてみて、私のじゃないと言ったら、あの小さいジャガイモの入った袋はおれのものだ。お風呂あがりのすみこさんに、おそるおそる尋ねると、「去年のジャガイモは小さいのしかとれなかったの」。まざまざと思い出した。すみこさんは去年、収穫の時もそう言っていたと。もはや目印などいらない。あーhukudaさん家のだ。
すみこさんは別れ際に、「もし足りないんだったら、いいよ」と言った。なんとも、欲深いものだと痛感した。ふと思い出したのだが、7年ほど前の冬、夫婦喧嘩の果てに大晦日、車で家を出た。伊勢神宮に行こうと思った。初詣の順番に並んだ。それから、帰ろうと思ったのだが、分岐点まで来たら、西の方に行きたくなって、四国に渡った。ぶらぶらまわっていたら、いつのまにか、88ヶ所めぐりになった。高知県の某市で、キャンプをしていて、財布を忘れた。小さな印刷所に。あわてて、電話をしたら、あーありますよと。よかったよかった。財布があってよかった。小さな小さな受付に財布は置いてあった。四万十川で拾った丸い石に笑顔が並んでいた。そして黄色の名刺が野菜の無人販売所みたいに積み重ねられていた。そこにダライラマ14世のことばがが刷ってあった。
「人間の究極の本性は慈悲と利他である」以来このことばは何度も思い返しているのだが、いまだかつて、ただの一度も実行できたことがない。人に優しくすると言っても自分の中のイメージとしてのあなたに対して優しくしているだけで、結局はなにものに対しても優しくないのだ。自分に対してすら優しくないのだと思う。実際に目の前にいる人は決してただの記号ではない。決して自分ではない生きた人間なのだ。
明日こそ。
白木蓮。もうちょっとで開花。

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